2006年05月23日

いろいろ考えてみた

いつもお世話になっているt_monkさんのブログのこの記事を拝見して、あれこれ考えさせられてます。まずは元記事の本文・コメント欄を読んでから僕の記事を読んでください。



そもそも教育というのがどれほど恐ろしい仕事であるのか、世の「教育者」の皆さん、気付いていらっしゃるんだろうか。自分の一言がその人の人生を大きく変えることさえいくらでもありうるってことに気付いていらっしゃるんだろうか。

いや、それ自体は覚悟はできているかも知れない。もっと言えば「他人の人生を変える一言が言えるかもしれない」…これが「職業としての教育」に関わろうとする一つの大きな動機でしょう。

しかし、あなたはそんなに優れた人間なんですか?と彼らに聞いてみたい。あるものは「尊敬を得ることができるように常に矜を正しています」と言うかもしれません。また「教師にはなったものの、キチンとしていない自分が悩みの種です」という人もいるかも知れません。ただ双方に共通しているのは「教師は聖人君子たるべし」という根強い「幻想」です。

言うまでもなく「完全な人間」なんてどこにもいません。ただ、これは言い換えれば「誰もがこの世を去る瞬間まで成長し続ける」ということです。人間は死ぬまで「成長過程」にあります。だとすれば成長の過程の人間が人間の成長に寄与しようというある種矛盾した側面が、教育という行為には内在しているんですね。

したがって「お互い不完全な人間同士だけど、僕はこの点はこう思う。君にもそのように考えてみてほしい」…このスタイルがあるべき教育のスタイルなんじゃないかと思います。

つまり教師という職業は、その重要性が分かれば分かるほど、そして自分の至らなさを知れば知るほど「謙虚な説得力(僕は教師の指導力の正体はこれだと思っています)」を持ち得るんじゃないかと思うんです。

ところで、僕の周りでは「あいつって『教師』だよな」という批判をすることがあります。いろいろなニュアンスで使うことはあるんですが、「講師」と「教師」の違いは端的に言えば「生徒に評価されることでのみ成り立つ人」と「生徒を評価する権力を持った人」ということになるでしょう。つまり「教師だ」という批判は「自分の考えを押しつけたり、手前勝手な基準で生徒を評価しようとする講師」という意味で使うことがあるんです。もちろんそうでない教師の皆さんがたくさんにらっりゃることも重々承知なんですが…。

さて、t_monkさんのお話の先生の話に戻りましょう。まあ一言で言ってしまえば、この美術の先生、ありえません。教員の資質はゼロです。嘆かわしいのは、このような先生がもっとも多様性を認めるべき芸術教科の教師だと言う点だと思うんですが。

そもそもこういう人間が教員になれることはかなり問題です。ただどんな採用基準をとろうが、「試験をこなすのだけがうまい不適応者」はやはり一定程度入ってくる。その人の人生を決める一つの大事な要素「学校教育」のことですから当事者にとっては「運が悪かった」では済まない訳ですが、ただ明確に不適応教師にあたってしまう「運が悪い」人が一定数いる訳です。

強いてこのような教師がいる唯一の「意味」は、子供が学校という場で「社会の理不尽」を学ぶことが出来ることでしょうか。また煎じ詰めていくと「自分がよいと思うものは評価者がどう言おうが好きなんだ」と言える強さを持ちうることでしょうか。もちろんその代償は大きすぎる気はしますが…。

t_monkさんのお怒り、ごもっともです。

ところでコメントの中で「筆者の言いたいことを答えよ」という問いに対して「筆者じゃないから分からない」という答えを書くという話があったんですが、実は僕も書いたことがあります(笑)。

ちなみに僕は現代文の授業では「『筆者の言いたいことは?』という設問は『現代文というゲームのルールにのっとって考えた場合、筆者が言いたいことは何であるということになるか』と読み替えろ」と言っています。もちろん授業はこのゲームを解くための「ルール」と考えられるものを教えることに特化していきます。

邪道なのかも知れないんですが、○×のつけられる試験なんて多かれ少なかれ理不尽なものなんです。理不尽なものであるという現実に目をつぶって、綺麗ごとを並べる方がよっぽど教育とは程遠いもののような気がするんですよね…。
posted by らくた at 01:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 渡世人らくた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「他人の人生を変える一言が言えるかもしれない」
これって教師冥利につきますよね!
で、「子供が大好き!」で先生になった人の方が、
自然にこのベクトルに向かっているような気がします。

>「お互い不完全な人間同士だけど、僕はこの点はこう思う。
>君にもそのように考えてみてほしい」
まさにその通りではないでしょうか。
家庭内でお父さんがタバコ吸って、
酒飲んで、ぐうたらして、でも・・時々大事な事を語る・・
この不完全さを子供に納得させられない親も失格なんでしょうね。
子供は見てますよ・・全て・・

>多様性を認めるべき芸術教科の教師だと言う点だ・・
そうなんですよ・・
そもそも腹が立っちまったのはソコなんです。
答えのないものに自分的な答えを強要するってのはね〜・・
芸術系って、いろいろな感じ方、
表現の仕方があるから成り立ってるものなんだって事だけは、
子供達に知らせて欲しいですね(笑)

ただ、ゲーム(勉強、社会)にはルールがありますから、
「今回のゲームはこうだよ〜!ルール守って答え出せよ〜!」
って所をしっかりと説明すれば良いのにね〜・・
そもそもが理不尽なんですからね(笑)

昨日も、女子中学生が授業についていけない鬱憤で、
学校のガラス割りまくったってのをニュースで読みましたが、
親も教師も勉強の意味を勘違いさせちゃってるんですよね・・
Posted by t_monk at 2006年05月23日 02:38
>そもそも教育というのがどれほど恐ろしい仕事であるのか、
>「教師は聖人君子たるべし」という根強い「幻想」
>教師という職業は、その重要性が分かれば分かるほど、そして自分の至らなさを知れば知るほど「謙虚な説得力(僕は教師の指導力の正体はこれだと思っています)」を持ち得る
>「教師だ」という批判は「自分の考えを押しつけたり、手前勝手な基準で生徒を評価しようとする講師」という意味

いろいろと考えずにはいられない御意見でした。実際、「教育」に類することの末端にぶら下がっている人間としては殊に。「教育」が虐待や抑圧と背中合わせの危うさを抱えているということ、そのことを意識することは重要であると思います。

ところで、↓このようなことが巷間報じられております。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060523k0000m040093000c.html

「毅然として」という言葉はたいへん恰好いいものです。しかし、それだけに濫りに使ってしまうことの弊害もまた大きい言葉のように思います。「ガツンと」とかも類似の文脈で使われたりしますね。
お上が定めたルール通りに処理するというタスクを行う主体を「毅然」と呼ぶのはどうにもしっくり来ません。周囲に流されず自己の信念に則って行動する場合なら、適切な用法に思われます。

いずれにせよ、この報告書に従えば、少なくとも「社会の理不尽さ」を学ばせる効果は大きくなるでしょう。効果とコストの釣り合いが適切かどうかは即断しかねますけれど…。
教員の負担がこれで軽減されるとは必ずしもいえなさそうな気がします。
Posted by 墨東公安委員会 at 2006年05月24日 00:59
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