2012年01月19日

格助詞の「の」の用法について考える

格助詞の「の」は、現代語では「主格(=「が」に置き換えられるもの)」「連体格(=後の名詞を修飾するもの)」「準体格(=「こと」や「もの」「〜のもの」など、名詞に置き換え可能なもの) 」の3つが主な用法といってよいでしょう。また、「連体格の『の』」ですが、これはさらに2つに分けられます。「所有」と「非所有」です。「私の本」が所有の用法、「パソコンのキーボード」は非所有の用法であるといってよいでしょう。

ただ、「所有」と「非所有」はそんなに画然と分かれてはいません。例えば「うちの車」みたいな用法。「うち」は所有の主体になるかどうかの問題があるわけですよ。ところが、この「所有の『の』」と言うやつ、よく考えるともっとややこしい問題があります。例えば「私の娘のカバン」という表現。この「の」は基本的にはいずれも「所有」と見ていいでしょう。ところが、カバンには尊重されるべき人格は存在せず、娘は娘のカバンを捨てたり譲渡したりすることは可能ですが、娘には私とは別の人格があり、私は娘の所有権を主張することもできなければ、娘を廃棄したり譲渡したりすることはできないわけです。では、この「所有の『の』」と呼ばれるものを、仮に「支配権・処分権を持つ『の』」と「とりわけて深い関係の『の』」とでも分けてみましょうか。すると「私の娘のカバン」の場合、前者は「とりわけて深い関係の『の』」であり、後者は「支配権・処分権をもつ『の』」と説明できそうです。こう考えると、純然たる「所有の『の』」は「支配権・処分権をもつ『の』」であり、「とりわけて深い関係の『の』」は、純粋な「所有」とは些か異なる概念だと見てよいのではないかと思います。

では、例えば「僕の母の人生」の場合。「僕の」は明らかに「とりわけて深い関係の『の』」でしょうが、「母の人生」の「の」はどうでしょう?僕にはどうしても「とりわけて深い関係の『の』」に見えます。「母の人生」に母は深く関わっていますが、母は自分の人生を、誰かのよりよい人生と交換したり、誰かに譲渡したりすることは出来ないわけです。その意味では母の自分自身の人生との関わり方は少なくとも「所有」とは別の関わり方であると言えるはずです。つまり、僕たちは、誰よりも深く「自分の人生」に関わらざるを得ないのですが、人生を「所有」しているわけではないので、自由意思で処分はできない。ただ、「自分の人生」にどう関わっていくかは、様々な状況の中で選択可能な範囲(その「広さ」は様々であるにしても)での「自由意思」に任されてよいと考えていいんだと思います。

「僕の人生」って言葉の「の」を「所有の『の』」と見るのに何となく違和感を感じたことから考え始めた話なんですね。で、話がまとまっていくうちに「この捉え方ってものすごく俺の人生観表してるよなあ……」って気がしてきたんですね。僕の場合、自分の人生にそれほど一生懸命に関わろうという気持ちもありません。夢のない死に待ち人生と言えばそうかもしれませんし、自然体で生きると言えばそうかも知れません。いずれにせよ、人生の「所有者」でない以上、死ぬまで生きるしかないんでしょうね。
posted by らくた at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然人らくた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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