2012年03月13日

似て非なるもの

殺人の容疑で起訴されている木嶋某という女性に対して、死刑が求刑されたという報道が昨日流れていました。まぁ、聞いているといろんなところが引っ掛かる事件でして、まぁ、かなり野次馬根性は刺激されるわけですよ。

事件そのものについても、男性週刊誌的な意味合いで興味は惹かれるわけですが、それよりもちょっと気になったのは、この事件についてのネット上なんかで見かける「反応」の方なんですね。この事件で死刑が求刑されたことについて、「木嶋某なんかさっさと死刑にしてしまえ!」的なコメントをネット上などでけっこう見かけるんですよ。世間の注目度の高い、特にワイドショー的にネタになる殺人事件などではしばしばこのようなことが起こっているような気もするのですがね。

ここで問題なのは木嶋某が、少なくとも現状においては「被告人」であるということなんですね「被告人」と「犯罪者」は「似て非なるもの」なんですよね。「被告人」と「犯罪者」の違いは何かといえば、被告人は「検察が立証しようとしている犯罪行為の主体と考えられる人物」、犯罪者は「検察が立証した犯罪行為の主体であると刑事裁判で認められた人物」あたりの説明でいいのかと思います。この事件の場合も、検察の説明通りの事件であるとするならば、なるほどまぁ、「死を以て償うべし」という議論は妥当であるような気もするんですね。言い換えれば、「現在の日本の刑罰の制度や実際に死刑判決が行われる基準に照らして考えれば、木嶋某が行ったとされる『行為』については死刑が妥当である」という議論は妥当ですが、「木嶋某に死刑を科すのは妥当である」という議論は、木嶋被告がまだ「犯罪者」でない以上は少々穏当を欠く議論と言えそうです。

何だかものすごくあたりまえのことを書いているような気がしてきましたが、もうちょっと。

このように考えていくと、もう一つ別の問題が引っ掛かってきます。「刑」は「罪」に対して科せられるものであるわけですよね。「有罪の認定」があって、しかる後に罪の重さに応じた「刑の重さ」の話が出来るということになります。つまり、「有罪/無罪の認定」の問題と「量刑」の問題も、一種の「似て非なるもの」と言えそうで、一旦切り離して考えたほうがわかりやすい気がします。

いかにも死刑判決の出そうな裁判で、死刑反対のイデオロギーを持った弁護団が組織されて……みたいな話を聞くことがあります。このような話には何となく違和感は感じていたのですが、どうやら「この被告の罪の重さの問題と、死刑があるべきかどうかは全く別の問題じゃないか?」という感じを持つからなんじゃないかと思うんですよ。これって「有罪/無罪の認定」の問題と「量刑」の問題が混同されている違和感という点で、「木嶋某を死刑にしろ!」という議論と同種のものに、僕には感じられてしまうんですね。

ところで市民の司法参加の形には「陪審制」と「参審制」に大別できるそうで、日本の裁判員制度はおおむね参審制を基礎としているといえます(資料)。この二つの違いの眼目は、「陪審制」では有罪/無罪の認定について陪審員が判断し、量刑は職業裁判官が行うのに対して、「参審制」では参審員は有罪/無罪の認定と量刑の双方に関与するという点です。このことを初めて知った時に、「陪審制ではどうして有罪/無罪の判定と量刑を切り離す必要があるんだろう……」という点が何だかものすごく引っかかったんですね。もちろんそこには様々な理由があるようですが、まだ理解できていないのですが、どうもこれを理解するためには「有罪/無罪の認定」と「量刑」を「似て非なる一連の問題」であるということから考え始めていく必要がありそうな気がします。

閑話休題。さて、では「有罪/無罪の認定」と「量刑」は別に考えることにして、ここでは「有罪/無罪の認定」の問題の方を考えてみたいと思うんですね。もちろん「犯罪を行ったこと」が認定が確定されれば、それに応じた刑罰が科されます。この段階で僕らはその人を「犯罪者」として扱います。ところが、世の中では「冤罪」というものがあるそうです。これもまた冤罪であることが「立証」され、それが認められれば「犯罪者」だった人が「無罪」の人となり、もっと言えば「国家権力の被害者」として扱われるようなるわけです。

冤罪の問題がなぜ起こるのか。もっとも根本的な問題は「犯罪を行った事実」と「犯罪を行ったと認定されたこと」が、これまた「似て非なる別のもの」であることに端を発しているような気がするんですよ。犯罪が「過去の事実」である以上、犯罪行為自体は「今ここにはないもの」であるわけです。であるとしたらこれを立証していくためには、「証拠の精査」と「証拠に基づく客観的かつ合理的な話の筋道」の二点が必要であることになります。「証拠の精査」するのも「話の筋道」を作るのもそれに納得するのも、どちらも人間の行為です。人間に行為には公明正大に努力しようが間違いが混在する可能性がゼロにはなりません。

よく「死刑の可否」が話題になります。被害者や被害者関係者の「報復感情の充足」は認められるべきです。そのためには「死を以て償うべき罪」が確実に存在するのではないかと思っています。ところが一方で、「被告人」を「犯罪者」とするときに「人間の判断」が介在していることに一定の危うさが確実に存在しているわけです。それなのに「死」という究極の形での刑罰を認めていいのかという問題があります。「人違いで殺した」ということの主体に、国家がなってしまう可能性を認めていいのかと言い換えてもいいと思います。

こう考えてくると、死刑存置論は「仮に間違って殺される人がいても、死を以て償う罪を犯した人間には必ずしかるべき償いをさせなければならない」をいうことを前提としており、死刑廃止論は「もし死を以て償うべき罪を犯した犯罪者すべてにその罪に応じた刑を与えることをあきらめて、その代わりにそこに混在する可能性のある『人違いの人』に対する名誉回復の可能性を保証する」という立ち位置に立脚しているものであると考えることが可能です。仮に「死を以て償う罪がある」ということを所与の条件としたとしても、「仮に間違って殺される人がいても」というリスクを簡単に考えることは出来そうもないし、一方で、死刑廃止論に与するところまで理性に全面的に依拠するのもそう簡単なことではなさそうです。

一人の人を死刑に処すること、あるいは死刑そのもののような難しい問題が、「勧善懲悪」の公式の中でものすごく単純に考えられ、結論付けられていく、木嶋某の事件の裏側に見え隠れするような気がして、なんだかうすら恐ろしい気分になっていきます。
posted by らくた at 08:22| 徒然人らくた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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